東京五輪から50年、2020年に期待が高まる東京オリンピック・・。最近目にする文言である。第1回東京オリンピックは1964年10月10日から24日までの15日間に行われた。読者各位はどんな思い出が残っているだろうか。沖縄も含めて全都道府県を巡った聖火の最終ランナーは坂井義則氏。高々と掲げたその勇姿がいまだに残っている人もあろう。坂井氏は広島に原爆が投下された日に市内で誕生したことから、原爆の子として平和の象徴とされていたことも事実。残念ながら先般脳出血でお亡くなりになった。6年後の第2回東京五輪をさぞ目にしたかったであろう。享年69才とのことだから・・ 。
小生にとってはマラソンで胴メタルに輝いた円谷幸吉氏との思い出だ。優勝はアベベ選手,次いで国立競技場に入ってきたのは円谷選手、全員総立ちで声援を送る、後を追う選手はヒートリー選手(英)、大柄な身体で,円谷選手を追い、追いつき,抜き去る、競技場は悲鳴に変わる・・・。
円谷氏は福島県須賀川市出身。今年も10月第2日曜日は円谷幸吉メモリアル市民マラソン大会が行われた。32回目である。ご存じの通り円谷氏は次のメキシコオリンピックを目指す途上で自殺した。衝撃的な出来事であり今も涙する。円谷選手とは学友であるからだ。
前日は、墓参り。今年も走友の君原健二氏が缶ビールを捧げ、残りを自身が飲み干した。恒例の行いだ。凄い心友だ。今年はハンガリーからシトー氏ご夫妻がご一緒した。東京オリンピックマラソンで5位入賞の選手である。当時の円谷選手の競技に対する真摯な取り組み姿勢と人柄に惹かれており、再会を期していたとのことだ。50周年を機会に是非との思いで、貯金し,旅費を用意しての墓参との事。その心に感謝の頭が下がる。墓前で円谷氏の実兄様との握手の姿は表現できない感動の一瞬であった。共に墓参した学友仲間も同じ心境であった。
お聞きするとアベベ選手のご子息、ヒートリー選手も先日来県し、墓参されたと聞く。競い合う選手同志だからこその交流なのだろうか。単にそうではあるまい。互いに持つ人徳の交流なのだろう。小生には届かない境地である。そこには日本人、外国人との距離はなさそうだ。このことこそオリンピックが目指すことなのだろう。
「お・も・て・な・し」「Discover Tomorrow~未来(あした)をつかもう~」これは,2020年開催に向けての掲げられたビジョンである。
50年前獲得したメダルは金16個、銀5個、銅8個 ,掴むメタルの数を多くする事も大事だが、日本人だからこその人間力と,世界に向けての人と人の縁作りのすばらしさを享受したいものだ。そのためには具体的に何ができるのだろうか・・。
「オリンピックとパラリンピックを応援する 小さな奉仕で大きな夢を!まごころの連鎖「おもてなし隊」隊長のO氏の話を伺った。O氏は地元経営者勉強会(倫理法人会)の仲間である。氏は趣意書に子供から大人(シニアまで)世紀の祭典に参加し、フエアープレイに皆で拍手する機会とし、「世界の人心、文化を動かす精神,「日本ブランド」を世界に発信する絶好の機会だと心得る。日本を訪れる外国人とって最大のおもてなしは、国家治安、インフラ整備が完全なこと,町の人々の誠実さなどであろう。世紀の祭典の競技は、選手の活躍に感動したり、期待するだけでなく、招致して歓喜した国民にも,選手と等しく責任がある。それは開催国に相応したマナーを身につけ,招致の条件として約束した「おもてなし」を果たすことです。と記している(趣意書部分抜粋)。具体的には、存在すら忘れられている一円玉、エコキャップ集めを子供と共に、花いっぱいの街づくりでおもてなしの心で歓迎、思いやりと助け合いの精神の育成で安心と安全、シニアの若返りを図るボランテアネットワークの構築づくり等を掲げて誰でもが参画できるシステムづくりとした。既に活動をスタートさせておりその反響も大きい。O氏は小企業の経営者だ。賛同する中小企業,幼稚園、学校,行政の協力を得、勿論組織の中枢には国内の知名人が協算していることも事実である。
50年前、小生は思い出はあっても,自身が参画、協力した事実はない。今度は、もてなす事への関わりを期し、語れる事実を残したいものだ。
企業は人なり。グローバル時代だからこそ日本ブランドしての文化に誇りを持ち、施せる企業であり社員でありたいものだ。人材育成には専門力向上と人間味(人格、品格、倫理観,協力・対人関係・・)のバランスが必要と提起し続ける小生である。各位はどう思いますか・・。
「おもてなしの心」に関してその心得と実践(仕事・諸生活・対人関係・・)について磨きあって参りましょう 。お手伝いいたします
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